以下の画像にほぼ沿った 3D CG ソフトウェア開発会社およびその製品の主に日本での移り変わり。私の記憶による主観が基となっているので、異論・反論は認めない :)


- はじめに
- 早送りして1992年
- Silicon Graphics
- 1993 Jurassic Park と Virtua Fighter
- 1995 Alias|Wavefront
- 1998 Maya 1.0
- 2002 Maya 大幅値下げ
- 2005~ Autodesk ほぼ独占
- Houdini, who?
はじめに
- 1984年 Wavefront Technologies Inc. (WTI) 米国カリフォルニア州サンタバーバラに設立
- 1985年 Alias Research カナダオンタリオ州トロントに設立
- 1986年 Softimage Inc. カナダケベック州モントリオールに設立
- 1987年 Side Effects Software Inc (SESI) カナダオンタリオ州トロントに設立
- 1988年 3D Studio (のちの3DS Max) が米国カリフォルニア州サンフランシスコの Yost Group においてMS-DOS 上において開発開始になる。
これ以外にも TDI (仏), Discreet Logic (加), Kaydara (加), Symbolics (米), Vertigo (加), LINKS (日本), Shade (日本) などいろいろあるが、とりあえず割愛。
WTI と SESI の設立には Robert Abel and Associates の影響があり、また SESI のおおもとは Omnibus という CG 制作会社であり同名を冠した会社が日本でまだ続いている。今でもあると思うが、北米の大手CGスタジオであれば市販ツールではなく、自社ツールを使うところも多かった。
- なぜカナダの会社が多いのかは、津山恵子氏著の「カナダ・デジタル不思議大国の秘密」という 2003年の本に Maya, Houdini, Softimage, MotionBuilder などの経緯がさらっと出ている。
早送りして1992年
この頃までには上記製品どれにも日本での販売代理店がついていた。
- 主力製品は The Advanced Visualizer (TAV) という製品で、SGI (Irix OS)、IBM (RS6000/AIX)、Sony News (News OS)、Sun Microsystems (SunOS->Solaris)、DEC、 Apollo などマルチプラットフォーム展開をしていたが、94年ぐらいまでにはほぼ SGI に集約。初期の WTI 製品は CRAY 上でも動いた。
それ以外に Personal Visualizer や Data Visualizer (ともに別コードベース)、また Visualizer Paint という2D ペイントツールと Composer という合成ツールを開発していた。Personal Visualizer と Data Visualizer は94年くらいまでには開発終了。Composer はバンクーバーで開発され、開発チームは元 Vertigo 開発者主体。
日本にはそれぞれのプラットフォームごとに個別の代理店があって、例えば SGI は住商エレクトロニクス (住エレ) で、IBM は CSK、Sun は伊藤忠テクノサイエンス (90年代後半からの一時期 Pixar RenderMan の日本での代理店業務も行った) など。CSK は WTI と合弁で日本ウェーブフロントを90年に設立。WTI そのものも CSK より出資を受けたりした。CSK は、この件に限らず、 IBM に力を入れていた。当時は、放送業界を除くと製造と建築会社も大きなユーザだった。
TAV そのものは、モデリング、アニメーション、シェーディングをバラバラのモジュールをそれぞれ起動して作業する、この頃にはかなり古色蒼然とした製品であり、敢えて良い点を挙げれば、スクリプティングを多少サポートしていたことか。
- Alias もほぼ SGI。当時は PowerAnimator (PA) というエンターテイメント系CGツールと Alias Studio による工業デザインの両方への展開。どちらも NURBS をもとにしたモデリングツールが特徴かつ強力であり、Alias Studio はほぼ自動車ボディのスタイリング専用。4次以上の NURBS 編集と、Fillet など高次の NURBS 編集ツールが特徴だった。
それ以外に Studio Paint3D という3D ペイントツールがあったが、合成ツールはなかった。IBM RS6000 にも一部製品で対応していたと記憶している。
日本の代理店はニチメングラフィックス (Symbolics を扱っていた、のちの NGC) と住商電子システムで、住商電子システムはのちに住エレと合体。Alias は日本法人を94年ごろ設立。
-
当時の製品は Softimage|3D (SI3D)。Eddie という合成ツールが SI3D に付属していた。後述の通り、日本の大手ゲーム開発会社に限れば、90年代では一番使われていた。
日本ではダイキン工業が独占。ダイキンは SGI コンピュータの OEM 製造及び販売も COMTEC というブランド名で行っていた。 のちに Alias 傘下となる MotionBuilder (最初は Filmbox という名前だった) もダイキンが扱っていたと記憶している。Eddie の Softimage の営業担当者は Discreet Logic を1991年にモントリオールに立ち上げ、Eddie の開発者はのちに The Foundry を設立する。
- SESI は Prisms という製品を開発。一番初期の Prisms は、コマンドラインで実行するツール群で、 Unix の パイプ ('|') を使って、あるコマンドの出力を別のコマンドの入力として使うようにしていて、これがノードベースアプローチへつながっていった。日本での販売は NK-EXA が行っていた。日本ではCMなど映像制作以外にアーケードゲーム (特にレーシング系) 開発に使われていた。
- Side Effects Prisms Interface (Anton Lubich YouTube)
- SGI O2 - Side FX PRISMS + Houdini 4.1 Preview (Archive VFX YouTube)
WTI, Alias, Softimage はどこも94年ぐらいまでには株式公開に踏み切っていた。SESI は今まで一度も行わず。
日本では、ニコグラフという Siggraph のようなCG学会および展示会が行われ、展示会部分も92~93 ぐらいまでは非常に盛況であったが、そのあと展示会部分は著しく縮小されていく。
Silicon Graphics
1981年設立の Silicon Graphics (SGI) 社は、Irix という Unix OS と OpenGL の前身である GL を基にした専用グラフィックボード搭載のワークステーションを開発し、IBM、DEC、Sun (Evans and Sutherland), HP などの競合から抜けて出て、90年前半には、商用3DCG 制作において事実上唯一の選択肢であり、94年に SGI World という独自イベントを日本で複数日開催できるくらい市場を独占していた。 WTI も Alias も (おそらく他も) IBM および他の Unix OS 対応は遅くとも 94-95年までには終了することなる。
当時のよくある出力フォーマットとして Beta Cam (テープ) への出力というのがあり、今では考えられないようなオプション装置 (しかも高価) を使ってコンピュータとビデオデッキを接続し、一コマずつ出力していた。こういったものは、特に Windows や Mac OS において、FireWire、USB など新しい規格によりケーブル一本に置き換わっていった。
当時 SGIワークステーションは数百万から1千万以上で、TAV も PA も600万円~800万ぐらいしていたと記憶している。当時64MB RAM や数百MB のディスク容量といえば相当潤沢であった。のちに Indy や O2 などの製品で低価格化 (100万円以下) を進めたが、90年中盤~後半の Octane でも高位機種になれば 800万円ぐらい。こういうビデオもある。
当時のPC (パーソナルコンピュータ) というのは、メモリは4MB~8MBぐらいで、32MHz 程度で動いていて、ほとんどのPCに専用GPUというのはなく、OS はシングルタスクからマルチタスクに移行中、マルチコアCPUというのもなかった。Video Toaster (Amiga 上で動作) のようなかなり突飛なターンキーソリューション以外、PC で商用CG制作は現実的ではなかった。
SGI は GL から OpenGL に移行し、かつ GPUにテクスチャメモリを搭載 (4MB とか当時としては潤沢) していったが、PC の性能アップは、ムーアの法則そのままにさらに急激に進化を遂げていった。
1993 Jurassic Park と Virtua Fighter
93年に、映画 Jurassic Park が公開。ここで Alias (恐竜のモデリング) と SI3D (恐竜のアニメーション) が使われたことで他より認知度が高くなる。SGI ワークステーション (Crimson) は映画本編にも登場した。
さらに SI3D がセガの Virtua Fighter の初の3D ポリゴンゲームの開発に使われたことにより、一気に Softimage 熱が上がる。SI3D は当時画期的だった IK、スキニング、モーション編集機能が他社製品に比べて直感的かつ優れており (とよく言われた)、その後の PlayStation, Nintendo 64, Dreamcast の3Dポリゴンを中心としたゲーム開発に引き継がれ、日本の大手ゲーム開発会社に限れば、当時一番使われていたのは圧倒的に SI3D であり、この流れは2001~2002年頃まで続く。
93年の Siggraph (アナハイム) で WTI はフランス TDI (Thomson Digital Image) の買収を発表。TDI が開発していた Explore という製品が傘下に加わる。Explore は TAV に比べると随分とモダンな製品であり、Explore にあった3Design モデリングおよびレンダリング (IPR) はその後の Maya につながっていった。特に Alt キーとマウスボタンの組み合わせによるビューポートカメラ操作は、3Design からほぼそのまま継承された。しかし、モデリング (3Design) やアニメーション (Anim)、マテリアル生成 (ShaderMaker によるプロシージャルテクスチャ) はそれぞれ独立したモジュールであり、別々に起動しなければならなかった。なお、Explore は SGI 用のダイアルコントローラに対応していた。
- 余談になるが、 Explore にあったフリップブック機能 (Fcheck) は Maya にも搭載されたが、元の開発者は 90年代後半に Nothing Real を設立、Shake という合成ソフトウェアに (Sony Pictures Imageworks 経由で) スピンオフしていった。Shake はのちに Apple に買収され、 MacOS のみ対応になり、製品も死んだ。
さらに余談になるが、Sony Picture ImageWorks は、現在 The Foundry が開発・販売・サポートしている Katana の開発元でもあった。
ほぼ同時期に WTI は Dynamation (リジッドボディ、ソフトボディ、パーティクルなどダイナミクスの専用ソフト、フレームバッファにパーティクルを書き出し HW レンダリングできるのが当時としては画期的だった) および Kinemation (IK およびモーション編集に特化した、今の言葉を使えばリギングツール)のツールを発表したが、それぞれスタンドアロンであり、一体型である SI3D や PA に比べると製品訴求力は弱かった。この統合化のための開発 (Project Dragonfly) は WTI 内で進行中であったが、その後 Maya で一元化される。
1994 年は、SGI World が横浜アリーナで開催された年であったが、一番大きなニュースは Microsoft が Softimage を買収したことであろう。これにより Softimage は A|W (後述) に先駆けて Windows 対応を行うこととなる。
1995 Alias|Wavefront
1995年、SGI が Alias と WTI を $518M で買収し両社を合併。Alias|Wavefront (A|W) は100% SGI 出資のソフトウェア開発子会社となる。合併/買収時の株価の差は少なくとも2:1 以上で Alias の方が高かった。それもあってか本社はトロント。これにより、旧Alias と旧WTI の技術を集約した製品が開発されることとなり、それが 96年の Siggraph (ニューオーリンズ) で Project Maya として紹介された。
1996年、Autodesk が Yost Group から3D Studio を買収し、Windows 対応の 3D Studio Max になる。どちらも Windows ベースの会社で、どちらも基本 Z-up なので、相性は良かったのであろう (つまりは建築・製造業向け)。ちなみに Maya と Softimage はデフォルト Y-up、Houdini も Y-up。Alias StudioTools は Z-Up。いずれにせよ、3ds Max とキャラクタスタジオでマーケティング用に制作された Dancing Baby は大人気となった。
Maya 発表とほぼ同時期に Softimage は Sumatra (のちの Softimage XSI) 、SESI は Prisms の後継である Houdini 1.0 を発表。正直 Houdini 1.0 の発表はまったく記憶にない。
1998 Maya 1.0
96年に Project Maya として 発表された Maya は、その開発にあたり、のちにアカデミー賞を短編部門で獲得することになる Chris Landreth を中心にA|W 社内でも映像作品 (Bingo) 制作が行われ、同時に Maya Lighthouse Accounts (初期導入開発協力顧客) として Blue Sky、 Disney、Square (ホノルル) の3社が発表された。これら三社には A|Wからの技術者常駐で制作サポートが行われ、こうした制作現場からのフィードバックが製品に反映されていった。 こうして 98年3月に Maya 1.0 が Irix 上でリリース。当時の価格はフルセット1ライセンス400~500万円。のちにこれらのアカウントから Ice Age (Blue Sky), Final Fantasy: The Spirits Within (Square Pictures), Dinosaur (Disney) の3つとして結実した。
当時の Maya は、モデリングは PowerAnimator のNURBS によるサーフェスモデリングと 3Design のポリゴンモデリングとビューポート操作、OpenGL フル活用したビューポートテクスチャ表示 (今ではできないことが考えられないかもしれないが、テクスチャはそれまではソフトウェアレンダリングしないと見れないものだった)、ダイナミクスは Dynamation ほぼそのまま移植、リギングは Kinemation、そして MEL による操作の完全スクリプティングとUI のカスタマイズ、そして使えるAPI、この統合が使える以上の製品として完結したことは非常に意義があった。
半面、レンダリングは、Exploreと PA のいいとこどりのはずが、開発が遅れてスピードもクオリティも、例をあげればシャドーマップとディスプレイスメントシェーディングの精度など、 RenderMan ほど良くなく、Dynamation そのままのフレームバッファ書き出しのパーティクルレンダリング、真剣に (ソフトウェア) レンダリングするのであれば、 RenderMan を使うことになった。 ポリゴンモデリングもどちらかと言えば映像制作向けでゲーム開発に必要な UV 編集機能は課題として残った。
ちなみに Maya 1.0 (Irix版) に必要なメモリ量は 64MB であった。
同じ 98年に Discreet Logic は Autodesk に $410M で買収され Kinetix と一緒にのちの Autodesk の Media & Entertainment 部門の礎となった。Discreet Logic は2D 合成・編集ツール (IFFFS = Inferno, Flame, Flint、Fire, Smoke) が主力製品の会社で、それまでの完全ターンキー型 (ハードウェアとソフトウェアと一体型、例えば Quantel などの) ソリューションとは一線を画していた。
この頃に前後して、 SGI ワークステーションの性能を上回る Windows NT コンピュータが Intergraph やらほかの会社から次々と発売され、SGI の独占は終焉を迎える。
Maya 1.0 リリース数か月後、Windows NT 版 (1.0.1) を出荷。Irix ライブラリ満載で移植が難しかった Composer の代わりに Windows では eyeon Software から Digital Fusion をMaya Fusion として提供開始したが長続きしなかった。
いずれにせよ、西海岸系大型映画スタジオは時間をかけて Irix から Linux に移った半面、ゲームやそれ以外は急速に Windows に移行した。Wikipedia によれば Maya 6.5 が SGI/Irix の最終リリースとなっている。
SGI も NT Windows ワークステーションを開発・発表したが、高価な割には Intergraph + Wildcat などに比べると遅く、一般的DOS機のようなカスタマイズ性にも乏しく、瞬く間に市場から消えた。Windows 経由ではなく Linux に直接行ったらどうなっていたかと思うときはある。ほぼ同時期に SGI は CRAY を買収したので、PC に関する理解・興味はあまりなかったのかもしれない。いずれにせよ、Windows では、3D Studio Max 、Newtek Lightwave3D なども競合製品となった。
私が最初に購入した Nvidia GeForce は99年秋頃に3万円程度で、フルスペックの SGI Octane より速くはなかったかもしれないが、パーツ全部バラバラに買って20万弱のPCと800万という価格差を考えれば十分だった。
そういえば、この頃にテライユキが大人気となり、Shade や Poser にも人気が集まったが、TV/CM を超えての大手への波及は少なかったように思える。
Maya はその後、1.5 (Maya Live)、Maya 2.0 (Cloth)、Maya 2.5 (ポリゴン+UV編集機能強化)、Maya 3.0、Maya 3.5 (Mac OS X 対応) と比較的順調にリリースを続け、最初はゲーム開発には全く使えなかったポリゴンモデリングも 2.5~3.0 頃までにはゲーム開発で使えるようになってきて、PlayStation2, Gamecube, Xbox 開発向けにツールを再選択する各ゲーム開発者の候補として間に合った。ただ、キャラクタアニメーション機能は SI3D を超えられず。またレンダラーも努力の割にはあまり進歩せず、mental ray への対応を進めていくこととなった。
同時期、Softimage XSI の開発は遅れに遅れ、XSI 1.0 が出た時には (なぜか) SI3D のようなポリゴンモデリングがなかった。なぜ SI3D の強力なポリゴンモデリングを後回しにしてまで NURBS に注力したのかは不明。多分 ILM をはじめとした西海岸の映画スタジオに行きたかったのだろう。しかも Softimage には NURBS の素養がAlias ほどあった訳ではないのに。NURBS やらずにポリゴン注力していれば客離れはあれ程にはなかったであろう。Softimage が 98年に Microsoft から Avid に売却されたものも無関係ではなかったのであろう。
MS が Softimage で具体的に何を得たのか私にはわからないが、DirectX の強化には役になったのではないかと思う。
XSI2.0 でポリゴンモデリングが(再)搭載されたが、この時点で少なくないユーザが Maya に移っていったし、3ds Max に流れたのもいたであろう。
展示会に関して言えば、米国の Siggraph も97年頃をピークに、その後は展示会部分は縮小気味となり、3DCG 関連の展示会として大きくなっていったのは、アメリカでは GDC であり、日本では、一般には告知されない各種コンソール機の開発者イベントであり、そこで Maya/Max/SI/LW3D/Houdini などが一堂に会していた。人員的に一番潤沢だったのは Maya で Houdini は一人だったりでちょっとかわいそうな感じ。同時期に CEDEC も徐々に大きくなっていき、また 第1回目の GTMFもこの頃。第一回目は Web テクノロジーと A|W で主催した。
展示会の凋落にも複数の要因があり、一つだけが原因ではないと思うが、インターネットの拡充とそれによる情報収集、アメリカ西海岸ほぼ独占のCG製作から世界中への制作拠点の分散、これはアジアなどの人件費の安いところへの外注だけではなく、オーストラリアやヨーロッパでのスタジオの大型化、そして制作規模の巨大化 ・グローバル化 (例: Marvel の映画) なども関係していると思われる。このグローバル化の流れは、展示会云々とは別に、大手スタジオ主導によるオープン規格 (Alembic や OpenEXR など) 発展への温床となった。
2000年代前半当時のゲーム開発では、まだ Unity や Unreal Engine の姿はなく、殆どのゲームは自社エンジンでまかなわれていた。Criterion Software (キャノン出資) の RenderWare などのゲームエンジンが市販製品として存在していたが、のちの Unity、UE ほどのシェアを得るにはいたらず、EA に買収され、市販製品としての役目を終えた。
2002 Maya 大幅値下げ
A|W は 2002年にMayaの価格を大幅に引き下げ、それまで数百万だったライセンスを Maya Complete (エフェクト機能なし) が30万弱、Maya Unlimited (フル機能) が約100万円程度になった。
これと XSI の開発の遅れもあり、 PS2 への開発で3D需要が上がった日本のゲーム開発会社で Maya Complete の導入が一気に進むこととなった。Maya 1.0 ~ 2.0 の頃は、日本のゲーム開発ではスクウェア (当時) や ナムコ (当時) など超大手だけが目立つユーザで、ゲーム中のレンダリングされたカットシーン制作に使用され、つまりは映像制作とほぼ同じだったのが、
- ポリフォニーデジタルが GranTurismo 3 の開発に Maya を導入したこと (が CGWORLD の記事になった)
- Maya が任天堂の「ゼルダの伝説 風のタクト」の開発に導入されたというプレスリリースが出たこと
この大幅値下げには社内の痛みも伴い、パリ (旧TDI)、サンタバーバラ (旧WTI)、Mountain View (SGI) などの開発拠点を閉鎖、人員集約、閉鎖しなかったオフィスもより安い場所 (日本の場合表参道から用賀) へと引っ越し、経費の大幅削減に努めた。
低価格化や Windows が主戦場になったことにで旧商社系代理店は3DCG から興味を失っていったのか、ボーンデジタルなど、新しいタイプの代理店がシェアを増やしていくこととなった。この業界とはおそらく無関係に、のちに CSK は 住エレに吸収され SCSK と名前は残り、ガンバ大阪のスポンサーとなる。
mental ray の開発元 Mental Images 社 (独) は Nvidia に買収され、Nvidia は HW レンダリング処理 (iray) に開発を集中させ、mental ray のソフトウェアレンダリングソリューションとしては役目を終えていく。 Pixar RenderMan はずっとレイトレーシング無しのレンダリング製品で、レイトレーシング対応に時間がかかり、その隙間には V-ray、のちには Arnold が入ってくる。
2003年に A|W は Accel-KKR と OTPP (Ontario Teachers' Pension Plan) などの出資を受け、SGI 傘下から脱却することとなった。この時の金額は $57M。SGI は購入時 ($518M) の約 1/9 でA|W を手放したことになる。A|W は Alias Systems Inc. という名前に変更。同時期に Kaydara 社を買収し、MotionBuilder および FBX ファイルフォーマットを傘下に入れた。これで アニメーション部分の強化を行う算段であった。同じく 2003年に Maya の開発に対しアカデミー賞 (Oscar) が授与され、会社としては親企業もなく、順風満帆の申し分のない状態であった。
2005年~ Autodesk ほぼ独占
2005年10月、Autodesk が Alias を $182M で買収すると発表。翌年1月に $197M で完了。Accel-KKR および OTPP は2年ちょっとで3.5倍の価格で Alias を売り抜いた。これは見事というべきであろう。いずれにせよ Alias の独立経営は終了、Autodesk に 3ds Max と Maya とかつての競合製品が集約し、社内もユーザもぎこちない感じ。
その後 (2008年) Autodesk は Softimage も Avid から $35M で買収し、かつての三大 3D CG ソフトウェアは一つの会社に集約した。驚きよりも諦め。Softimage は事実上飼い殺しとなり、その役目を終えた。Autodesk が買収して長続きしなかった製品は他にもあり、Toxik、MatchMover、Mudbox など、他にもあったと思う。とは言え、Naiad (Exotic Matter) のように 2012年に買収した製品が Bifrost として Maya に大きく露出されてきたのは比較的最近なので、他の製品も今後復活するかもしれない…
Mudbox や Z-brush などのポリゴンとサブディビジョンサーフェスを基にしたスカルプティングモデリングツールはどちらも映画 LOTR 三部作の製作から生まれてきた。これには、開発者の努力も勿論だが、メモリが MB 単位から GB へ(つまり千倍) 増加し、GPU が高性能化したコンピュータの発展も無視できない。MB であれば、ああいうソフトウェアは無理であっただろう。そのためには OS 含めコンピュータが 32ビットから64ビットへ移行する必要があった。
Maya は2007年に、日本語UI を Maya 8.5 でリリース。Alias で始まった日本語化・国際化は終わったときは Autodesk になっていてプチ浦島状態。これにより、短期的な売上への寄与はともかく (Mayaの、Softimage でも良いが、UI が日本語化されたからと言って、大量導入に踏み切る会社はない)、各種学校への導入やユーザの機能習得度はさらに加速、現在に続くユーザ層の厚さと他のソフトウェアへの乗り換えへの障害につながった。
Autodesk になったことで、機能追加はともかく、Maya のバージョンは一気に 1999.5 上がって Maya 2008 となり、その後は年度バージョンでリリースされる。
Houdini, who?
Maya 1.0 に搭載された Dynamation からのダイナミクス機能はそこそこ良いもので、なおかつ Maya の持つモデリングやアニメーション機能と完全に統合されており、その後も Maya Cloth や Maya Fur、さらに Maya 4.5 で Fluid Effects が搭載され、Maya のエフェクトツールとしての立場はそれなりに強力であった。問題は、それだけにないにせよ、ゲーム開発優先の機能開発、Autodesk 後の買収経由による別製品バンドルによる機能追加、+ Autodesk 標準とのすり合わせに開発を費やしたことで、そのあとの実質的な機能強化に乏しかったことがあげられる。
Houdini は、NK-EXA がいつ手を引いたのか私は正確には知らないが、2000年代前半の Maya の大幅値下げに追従せず(できず)、おそらく世界的にもそうだったと思うが、特にゲーム開発者間でのシェアを大幅に落とした。半面、ゲームでのシェアを落としたことで、開発を映像制作のエフェクト機能に注力することとなった。株式公開していなかったからか、買収の心配も親会社からの指示などの制約をうけることなく、細々とではあってもノードベースのプロシージャルアーキテクチャを強固なものとし、柔軟なレファレンスおよびキャッシュ機能、強力な Python バインディング、OpenEXR, OpenVDB, Open Subdiv, OpenColorIO など、様々な業界標準に素早く対応できた。
日本での販売は、2008年からインディゾーンが取り扱い始め、2013年から SideFX (この呼称は2015年ぐらいから使い始めたが) による日本市場への再介入、2016年7月からボーンデジタルが代理店として加わった。
- さつき先生と学ぶはじめてのHoudini :
- SideFX 社長 Kim Davidson による SideFX & Houdini - a brief history の日本語訳が掲載されている。
- SideFX 社について SideFX
- Side Effects Software – 25 years on fxGuide
- SideFX Houdini - History OdForce
- TouchDesigner と Houdni そして、PRISM を作った グレッグ
- Enhanced Endorphin: SESI 訪問 (2012年8月だと思われる)
他の産業同様、ソフトウェア開発は、ハードウェア開発のような、材料、製造、出荷、在庫という概念が希薄であったとしても、趣味でない限り、タダではできない。資金を得るには、短期的には a) 大口の出資者を探すか b) 株式公開して広く募る、のいずれかが考えられるが、金を出して口を出さない人は非常に少ない。出資者も思ったほどの利益を得られなければ、他に売り飛ばす。大きな利益がぶら下がれば勿論売り飛ばす。自分の思い通りに開発をするのであれば、着実に自力で売り上げを伸ばし、それを開発に回すようにするか、バランスを取りながら行うことが重要に思える。
こんな面白い記事があった。
- 資金調達の方法: 適切なタイミングで適切な人たちにアプローチする (Unreal Engine ブログ)
Blender
正直 Blender に対して、人に披露するほどの知識は持ち合わせていないのと、まだこれから先いろいろありそうなので、今はまとめない。
最終更新: 2025-08-26
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